立春大吉のご挨拶
鎌倉楽しむ会 令和7年立春大吉のご挨拶 7:2:5
新年のご挨拶
鎌倉楽しむ会 令和7年の年始ご挨拶 7:1:4
鎌倉へ時代の流れ
私の故郷は本州は最果ての恐山の麓・田名部町(現在むつ市)です。その地に存在する菩提寺の常念寺に、幼少のころ祖母のお参りに連れられ、そのお寺に鎮まる「阿弥陀如来」の美しさには子供心にも見惚れていた記憶が鮮明に浮かび上がってきます。
後年、この「阿弥陀如来」は江戸時代の明暦(1568)の頃、京都・清浄華院から移され、大正4年には国指定重要文化財となったものという。この事実が京都への誘いとなり行動範囲が奈良地方に広がっていきました。
「石舞台」に触れ、遠くは蘇我入鹿と中大兄皇子、さらには中臣鎌足の葛藤をも知らされ、大袈裟ですが、私なりに「日本建国」についての権力闘争の物語には強烈に心が動かされました。
また、信州善光寺の宿坊に籠り参詣することにも誘われ、そこで「仏教伝来」や「崇佛論争」での蘇我氏と物部氏の権力闘争も歴史の物語として知らされました。
さらに、大和の唐招提寺創建の「鑑真和上」にまつわる物語と奈良仏教のことなどにも興味が湧いて、聖徳太子の始めた遣唐使による様々な文物、時代を経ての「最澄」「空海」の渡唐による「平安仏教」の布教などに行きつくことができてきました。
そして、平安時代の後期・白河天皇が践祚されますと、藤原摂関家よる政治体制を天皇から上皇、そして「法皇」として権力と権威を併せ持った「院政」の時代に入っていくのです。その時、白河法皇は自らの護衛団としての「北面の武士」を形成していきます。この「北面の武士」団の中に、後々、日本歴史の大変貌に登場する「平清盛」「佐藤義清(のちの西行)」「源義親(頼朝の父)」など蒼々たる人物が登場してきます。
一方「最澄」の比叡山では、遣唐使として勉学した僧や全国から仏教の真髄を極めようとする勉学僧が衆参し、自説の悟りを開いた「法然」「日蓮」「道元」などが、その一派を築いていくのです。
このような躍動する平安時代の末期に至り、天皇家の後継問題が表面化し、これが京の都を揺るがす「保元の乱」となり、平清盛と源義朝が一気に歴史上に登場して、二年後には、「平治の乱」が始まり、いよいよ「平清盛」が一介の北面の武士から政権を担う「太政大臣」まで上り詰め栄華の世界をつくり数々の国宝・文化財を創り上げていきます。
その20年に亘る「平家の栄華」も、源頼朝(清盛のライバル源義朝の子)により壊滅され、いよいよ「源頼朝」による「鎌倉時代」が治承4年(1180)から始まり、妻の北条家に政権は引き継がれ、「武士の時代」となり、また戦いの連続もはじまり、世の無常観も募ってきたのか、ここに鎌倉仏教の「禅宗」「浄土宗」「日蓮宗」「曹洞宗」「浄土真宗」が民衆の中にも浸透していくようになるのです。(清藤孝 記)
鎌倉への誘い
鎌倉の情景や歴史の道などを著作されている「永井路子」先生、「立原正秋」先生の作品に出逢い、いつも何気なしに鎌倉を散策していたものが、少しずつ気付かされることも出てきました。鎌倉八幡宮の檀葛、大路小路、そして行き止まりの細道など気付かないうちに、もう少し深堀していこうという世界に引きずりこまれていきました。
鎌倉市内には130余りのお寺と20余りの神社が存在することも分かり、また、その寺社には、それぞれ寺伝や由緒の物語も知るようになり、「何故」が倍加してきました。
そして、浄明寺の境内には、「鎌倉」の地名の元となったという藤原鎌足伝説を孕んでいる「鎌足稲荷社」が存在し、これが鹿島神宮・香取神宮と関り、さらに春日大社の祭神勧請になり、また、奈良公園の神鹿に関連してくる面白さ。また、「龍口明神社」のご祭神は神武天皇の母「玉依姫」が祀られています。
このようなことになってきますと「鎌倉」の成り立ちを説明しようと思いますと神話の時代が書かれている「古事記」、日本の本格的歴史書「日本書紀」も知る必要に迫まれ、さらに飛鳥から奈良時代の事象もと勉強する材料が無限に広がってきました。
おかげさまで、一緒に鎌倉の地を踏みながら勉強する仲間にも恵まれ、少しずつ説明する機会もいただき、その勉強の成果報告の気持ちをもって臨めるようになり、また、仲間との歴史のキャッチボールの会話の中からも大いに学ぶこととなり、「鎌倉楽しむ会」も徐々に進展してきました。説明にしても平面的な鎌倉時代ばかりではなく、それに関連する時代も織り込んだ立体的な説明をと心がけるようになってきました。
これは「鎌倉楽しむ会」に集う仲間の協力が歴史探索の最大のエネルギーとなり、
散策の実行力となり、説明を真摯な眼差しで聞いてくださる、これが最大の喜びとなって、「明日の鎌倉」へと推進してのエネルギーを生み出していただいています。感謝の極みです。
これからは「も一度 鎌倉」を目指し、もう少し深堀した「鎌倉の魅力」を説明できるように、ゆるやかに活動していく所存です。今後ともよろしくお願いいたします。
そして、浄明寺の境内には、「鎌倉」の地名の元となったという藤原鎌足伝説を孕んでいる「鎌足稲荷社」が存在し、これが鹿島神宮・香取神宮と関り、さらに春日大社の祭神勧請になり、また、奈良公園の神鹿に関連してくる面白さ。また、「龍口明神社」のご祭神は神武天皇の母「玉依姫」が祀られています。
このようなことになってきますと「鎌倉」の成り立ちを説明しようと思いますと神話の時代が書かれている「古事記」、日本の本格的歴史書「日本書紀」も知る必要に迫まれ、さらに飛鳥から奈良時代の事象もと勉強する材料が無限に広がってきました。
おかげさまで、一緒に鎌倉の地を踏みながら勉強する仲間にも恵まれ、少しずつ説明する機会もいただき、その勉強の成果報告の気持ちをもって臨めるようになり、また、仲間との歴史のキャッチボールの会話の中からも大いに学ぶこととなり、「鎌倉楽しむ会」も徐々に進展してきました。説明にしても平面的な鎌倉時代ばかりではなく、それに関連する時代も織り込んだ立体的な説明をと心がけるようになってきました。
これは「鎌倉楽しむ会」に集う仲間の協力が歴史探索の最大のエネルギーとなり、散策の実行力となり、説明を真摯な眼差しで聞いてくださる、これが最大の喜びとなって、「明日の鎌倉」へと推進してのエネルギーを生み出していただいています。感謝の極みです。
これからは「も一度 鎌倉」を目指し、もう少し深堀した「鎌倉の魅力」を説明できるように、ゆるやかに活動していく所存です。今後ともよろしくお願いいたします。(清藤孝 記)
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